ドナルド・キーン年譜 30代

(注)年譜作成にあたっては、『ドナルド・キーン著作集 別巻 補遺:日本を訳す/書誌』(新潮社、2020年2月)及び『別冊太陽 日本のこころ254 ドナルド・キーン 日本の伝統文化を想う』(平凡社、2017年9月)を適宜引用した。また多くの方々に貴重な情報を提供いただくなど、多大なご協力をいただいたことに、心より感謝する。未確定の情報については「?」で示しており、今後調査を進めていく予定である。以下の年譜は、2023年(令和5年)4月5日版である。

1952(昭和27)年
30歳

1月16日から、ケンブリッジ大学構内コレッジの大教室で学生を含めて聴講生10人余を相手に、「日本の文学」を5回にわたって連続講義。
2月、英国王ジョージ6世の崩御(2月6日)に衝撃を受ける。
5月、The Japanese Discovery of Europe: Honda Toshiaki and Other Discoverers, 1720-1798(『日本人の西洋発見』)が、London: Routledge and Kegan Paul から刊行される。
6月、コロンビア大学東アジア研究所初代所長ジョージ・サンソムの自宅訪問。
夏休みの間、ニューヨークに戻りコロンビア大学で編纂されていた Sources of Japanese Tradition(『日本伝統の源泉』)の翻訳の手伝いをする。
秋、ロシア語を勉強する。
11月18日、ロンドンのコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラハウスで、マリア・カラス主演、ベッリーニ作曲の《ノルマ》を鑑賞。人生における最高のオペラ体験の一つとなる。

1953(昭和28)年
31歳

4月頃、『奥の細道』を翻訳。
5月、The Far Eastern Quarterly(『遠東季刊』)に発表した、 ‘Jōdai bungaku shi: a history of ancient literature.’ by Sasaki Nobutsuna(「佐佐木信綱著『上代文学史』評」、1952年8月)が『文学』(岩波書店)に同誌編集者の玉井乾介訳で無断掲載(日本デビュー作)。
5月26-27日、エリザベス女王の戴冠式のため訪英中の皇太子(のち天皇明仁)の通訳としてケンブリッジ大学構内を案内。27日には、ダイニング・カレッジ学長にして大学の副総長であるライオネル・ホイットビー(Lionel Whitby)夫妻主催の晩餐会に出席。晩餐会には、皇太子、小泉信三、日本学者エリック・キーデル(Eric Ceadel)夫妻、月食観測のため北海道を訪れたことのあるフレデリック・ストラットン(Frederick Stratton)も出席した。
6月、フォード財団の奨学金を得て(研究テーマ「現代日本に残る古典文学の伝統」)、イタリア、イラク、インド、セイロン(現 スリランカ)、シンガポール、インドネシア、タイ、カンボジア、香港を旅行。アジャンタ、アンコール・ワット、ボロブドゥルの仏教遺跡が最も印象に残る。ケンブリッジ大学に籍を置いたまま、京都大学大学院へ留学。
8月24日、京都着。青島での友人、横山正克が出迎え横山邸(北部の衣笠山麓)に逗留。横山邸の向かいに住む画家井澤元一を紹介される(9月頃)。龍安寺、サントリー山崎工場(サントリー創始者の鳥井信次郎に会う)、先斗町を訪れる。
9月、同志社大学教授オーティス・ケーリの紹介で京都市東山区今熊野南日吉町23の無賓主庵(奥村綾子管理)に下宿。この下宿で永井道雄(のち文部大臣)を知る。
10月、京都大学国文科大学院で野間光辰教授の講義を受講する。
10月2日か5日?、北野天満宮の宮司である香西大見の案内で第59回伊勢神宮式年遷宮に参列する。
11月、金剛能楽堂で『船弁慶』、南座で250年ぶりに復活上映された歌舞伎『曽根崎心中』(お初:二代目中村扇雀)を観劇。
智積院で書を習う。
12月14日、同志社大学徳昭館で行われた卒業生予餞行事で、日本語での初の講演(演題:「比較文学について」)。
12月20日印刷、『文藝春秋』1954年1月号に小泉信三の「外遊日記」が掲載される。本文ではドナルド・キーンについて言及されており、ドナルド・キーンが日本のマスコミに登場したのはこれが初めてとなる。
暮れに、春日神社の祭りで茂山千五郎の演ずる『船渡婿』を観て、狂言が好きになる。
芭蕉の研究に没頭しつつ、『日本文学選集』(Anthology of Japanese Literature: From the Earliest Era to the Mid-Nineteenth Century と、 Modern Lapanese Literature: an anthology)の編纂に打ち込む。また、潁原退蔵の『芭蕉俳句新講』上下巻(1951年)を読む。
Japanense Literature: An Introduction for Western Readers(『日本の文学』)が、London: John Murray より刊行される(以後、日本語版、スペイン語版、イタリア語版、ドイツ語版、ギリシャ語版、ルーマニア語版刊行)。

1954(昭和29)年
32歳

2月17日、無賓主庵で大蔵流宗家の茂山千之丞に狂言を習い始める。
2月18日、『毎日新聞』本紙(大阪)に「“青い眼の太郎冠者”留学の米人博士が狂言習う」が掲載される。取材した記者は山田庄一(のちに文楽の制作を手がける)、また山田の取材時には稽古の様子を永井道雄が見学していた。「青い眼の太郎冠者」との呼称もこの時に生まれた。
2月、「西欧人の源氏物語の観賞」を日本語で執筆し、『文学』に掲載する。留学期限の1年が切れたが、ケンブリッジ大学から留学期間の延長を認められなかったため、コロンビア大学に移籍する。コロンビア大学は1年の留学継続を許可した。
5月8日、横山正克とともに滋賀・大津の義仲寺にある木曽義仲・松尾芭蕉の墓に詣でる。
5月19日、関西大学(大学ホール)にて国文学科・英文学科各教授と懇談会。
5月20日、10:00から関西大学大学院講堂にて学術講演会(主催:関西大学英文学会・関西大学国文学会)が開催され、「比較文学について」を講演。午後には、関西大学教授の吉永孝雄らとともに文楽座(四つ橋)で「仮名手本忠臣蔵」を鑑賞。
5月、『蓼喰ふ虫』のサイデンステッカー訳稿を持参して、下鴨に住む谷崎潤一郎を訪問する。
夏、吉田健一とはじめて会う。
8月、永井道雄の紹介で中央公論社社長の嶋中鵬二と知り合う。日本ペンクラブ会長の川端康成に『日本文学選集:近現代篇』出版の助力を乞う。
11月2日、東京の歌舞伎座で三島由紀夫(29歳)とはじめて会う(嶋中鵬二の紹介)。「芸術祭11月大歌舞伎」で公演された三島由紀夫作『鰯売恋曳網』をともに鑑賞する。
11月23日、第118回「考究会 狂言の会」(主催:茂山千五郎・同社中、場所:京都・柏樹閣能舞台)で、狂言『千鳥』に出演し、太郎冠者を演じる。谷崎松子、伊吹和子、井澤元一らが観劇。
京都・金剛能楽堂で狂言『末広』の大名役を演じる。谷崎松子、茂山千之丞、武智鉄二らが観劇。楽屋を訪れたアイヴァン・モリスを知る。
京都駅構内の本屋で購入した小西甚一の『日本文学史』(アテネ新書、1953年12月)を京都から東京までの列車の中で読み、どうしても著者に会いたいと思ったため、東京についた後実際に著者小西甚一の元へ向かう。

1955(昭和30)年
33歳

1月1日、井澤元一宅を訪問。
1月、『中央公論』に「紅毛文芸時評」を日本語で連載。
『新潮』1月号に掲載された三島由紀夫の戯曲『班女』の翻訳に取りかかる。
2月、吉田健一の招きで「鉢の木会」に出席、石川淳、河上徹太郎、大岡昇平、福田恆存、中村光夫らを知る。
2月、『演劇評論』(3巻2号)に「「夕鶴」「東は東」をみて」(原文日本語)掲載。
3月13日、京都にて、狂言『末広がり』(場所時間未定)を演じる。
3月18日、上京。嶋中鵬二宅に宿泊。
4月、日本ペンクラブ例会(東京・銀座)にサイデンステッカーとともに出席。ハワイでの捕虜、堀川潭(本名:高橋義樹)の紹介で伊藤整を知る。
「おくのほそ道」を紀行。白河の関、多賀城、松島、中尊寺、鳴子、立石寺、大石田、象潟、金沢、小松を辿る。中尊寺では金色堂内陣の美に感嘆する。『中央公論』6月号に「紅毛奥の細道」を掲載。
4月、長崎、博多を旅行し、The Manchester Guardian 紙に取材記事を寄稿する。
4月、永井道雄と台湾を旅行。
5月9日、嶋中鵬二と谷崎潤一郎を訪ね、京都麩屋町柊屋滞在中の志賀直哉と会う。辻留にてドナルド・キーン帰国の送別会が催され、祇園の芸子舞妓の舞を見る。
5月12日、「つばめ号」で上京。
5月13日夜、吉田健一の音頭取りで送別会が行われる。親しい友人が集まったほか、山本健吉や河盛好蔵らとも初めて会う。
5月15日、午前1時の飛行機で出発し、2年間の日本留学を終えてアメリカへと帰国する道すがら、永井道雄を伴って香港・台湾に2週間旅行する。香港の飛行場で永井と別れ、バンコクへの機上で永井荷風の『すみだ川』を読み涙する。バンコクからマドラスに飛び、汽車でインド南端のマドゥライへと向かうと、現地でフォービアン・バワーズ、サンタ・ラマ・ラウ夫妻に会う。三人でマドゥライからコナラクへ東海岸を車で行く。
6月の末頃、英国に到着。
8月、約1ヶ月間イタリア旅行。シチリア島のタオルミナの劇場において、独りで狂言を演じる。
9月、フランスの客船リベルテでニューヨークに戻り、コロンビア大学助教授として日本文学を講義。毎週約10時間の授業を持ちながら、太宰治の『斜陽』翻訳を進める。コロンビア大学の教授アパートRiverside Drive 560 20-G に居住。
Anthology of Japanese Literature: From the Earliest Era to the Mid-Nineteenth Century(『日本文学選集:古典篇』)を New York: Grove Press より編集刊行(『万葉集』、空海『請来目録』、『古今集』、『新古今集』、鴨長明『方丈記』、世阿彌『花伝書』、宗祇。肖柏・宗長『水無瀬三吟』、松尾芭蕉『おくのほそ道』『幻往庵記』、向井去来『去来抄』、近松門左衛門『曽根崎心中』等を翻訳して収録)。初版2000部。
‘Villon’s wife’(太宰治『ヴィヨンの妻』)を New Directions 15 に翻訳掲載。
12月、Anthology of Japanese Literature、重版(以後、現在まで版を重ねる)。
フォービアン・バワーズ、サンタ・ラマ・ラウ夫妻の自宅パーティーに招かれ、メキシコの詩人、オクタビオ・パス(のちノーベル文学賞受賞)と知り合う。
12月27日、太宰治の『斜陽』の翻訳を完成させる。

1956(昭和31)年
34歳

1月、『竹取物語』(The Tale of Bamboo Cutter)を Monumenta Nipponica(11巻4号、上智大学)に翻訳掲載。
2月、京都・金剛能楽堂で狂言『末広』の大名役を演じる。
6月、Modern Japanese Literature: an anthology(『日本文学選集:近現代篇』)を New York: Grove Press より編集刊行(河竹黙阿弥『島鵆月白浪』、坪内逍遙『小説神髄』、二葉亭四迷『浮雲』、永井荷風『すみだ川』、島崎藤村『千曲川旅情の歌』、北原白秋『邪宗門秘曲』、髙村光太郎『根付の国』、石川啄木『ローマ字日記』、横光利一『時間』、萩原朔太郎『夜汽車』『猫』『有害なる動物』『小出新道』、宮沢賢治『詩編1063』、中野重治『歌』、北川冬彦『春雪』『早春』、中原中也『朝の歌』『臨終』、太宰治『ヴィヨンの妻』等を翻訳して収録)。
夏、Newsweek 誌の依嘱を受けて来日、第五福竜丸、石原慎太郎の『太陽の季節』などの取材記事を執筆。
8月、大阪の演劇研究会の会員、鳥越文藏らと直江津から船で佐渡へ向かう。両津のホテルで文弥人形を見学。その他佐渡に残る芸能を見学。
8月24日、文弥人形の研究者である佐々木義栄に会う。
9月13日、品川の喜多能楽堂で18時から行われた「ドナルド・キーン氏送別狂言会」(主催:ドナルド・キーン氏歓送会)で狂言『千鳥』の太郎冠者(主何某:梅原楽狂、酒屋:武智鉄二)、『鬮罪人』の立衆(立頭:茂山千五郎、笛:権藤芳一)を演じる。谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫、吉田健一、伊藤整、安倍能成、山本健吉、舟橋聖一、丸岡明、森田たま、松本幸四郎(八代目)、野村万作らが観劇する。
The Setting Sun(太宰治『斜陽』)を New York: New Directions より翻訳刊行。
Japanese Music and Drama in the Meiji Era(小宮豊隆編『明治文化史』)を Tokyo: Obunsha よりサイデンステッカーと共訳刊行。

1957(昭和32)年
35歳

1月、ニューヨークのバーサ・シェーファー・ギャラリーで開催された篠田桃紅の個展を訪れる(初日)。篠田桃紅と初めて出会う。
2月、『日本人の西洋発見』(東京:錦正社版)が刊行される。
4月、永井道雄と台湾旅行。
春、四国紀行。
7月9日、クノップ社(New York: Alfred A. Knopf)の招きで、三島由紀夫渡米。
7月26日、クノップ社の招待で、三島由紀夫とともにブロードウェイのミュージカル『マイ・フェア・レディ』を観劇する。
Five Modern Nō Plays(三島由紀夫の戯曲『近代能楽集―卒塔婆小町、綾の鼓、邯鄲、葵上、班女』)を New York: Alfred A. Knopf より翻訳刊行。
ニューヨーク滞在中の三島由紀夫の『近代能楽集』上演に奔走。
7月か8月、または両月にサラトガスプリングスのヤドー(Yaddo)で小説を執筆。ヤドーにて、小説家のホーテンス・キャリッシャー(Hortense Calisher)と出会う。後に夫となった小説家カーティス・ハーナック(Curtis Harnack)とも親交を深める。
9月、第29回国際ペンクラブ東京大会にジョン・スタインベック、ドス・パソスらアメリカ代表団の一員として参加、各国若手作家の日本留学を提言。
イタリアの作家アルベルト・モラヴィア、イギリスの文芸誌編集者スティーヴン・スペンダーらを京都案内。
10月、『碧い眼の太郎冠者』中央公論社刊(序文:谷崎潤一郎)。
10月2日、ニューヨークのグラッドストーン・ホテルに滞在する三島由紀夫を、キース・ボッフォード、チャールズ・シュルツとともに訪ねる。
11月、アルゼンチンの雑誌 Sur で主宰者:ビクトリア・オカンポ、オクタビオ・パス、日系二世のカズヤ・サカイと共に「日本文学特集」を編集。
12月、’Bashō’s Journey to Sarashina’(松尾芭蕉『更級紀行』)を、The Transactions of the Asiatic Society of Japan, 3-5(日本アジア協会)に翻訳掲載。
12月28日、三島由紀夫、キース・ボッフォードと夕食。
12月30日、三島由紀夫、チャールズ・シュルツ、サム・ゲルフマン(エージェント)と夜明けまで飲み歩く。

1958(昭和33)年
36歳

2月、松山善三、高峰秀子夫妻とメトロポリタン歌劇場でマリア・カラスの《ランメルモールのルチーア》を観劇。
5月18日、大佛次郎をクノップ社編集長ハロルド・ストラウスとともにメトロポリタン美術館などに案内し、ストラウスの別荘で一泊する。
5月末に日本へ行く。
8月15日、京都から熱海の旅館「桃李境」へと向かい、一浴後(7時頃から)松山善三・高峰秀子夫妻とともに、谷崎潤一郎宅で行われた歓迎会に参加。
8月16日朝、「いでゆ」号にて帰京。
8月25日に日清チキンラーメンが発売されると、そのおいしさに感激しニューヨークへと戻る際にも段ボール1箱分を持って帰る(1人で完食する)。
9月7日、『サンデー毎日』増大号に、高峰秀子との対談「青い目の見た日本さまざま」が掲載される。
9月、ドナルド・キーンの推薦で、京都大学の貝塚茂樹が研究員としてコロンビア大学に招聘される。
10月、火野葦平とニューヨークのレストランで会食。
Sources of Japanese Tradition(角田柳作の日本思想史の講義ノートを元にテッド・ドバリーとともに編集)を New York: Columbia University Press より刊行。
No Longer Human(太宰治『人間失格』)を New York: New Directions より翻訳刊行。

1959(昭和34)年
37歳
1月、’Bashō’s Journey to 1684’(松尾芭蕉『野ざらし紀行』)を、Asia Major, 7, 1-2 に翻訳掲載。
7月、「鷗外の『花子』をめぐって」を「鉢の木会」季刊同人誌『聲』(第4号)に掲載。
7月27日発行の『週刊新潮』(「週刊新潮掲示板」)にて、森鷗外短編『花子』の主人公・ロダンの彫刻のモデルであった日本の女優「福原花子」(本名:太田ひさ)の消息について尋ねる。
8月3日発行の『週刊新潮』(「週刊新潮掲示板」)に、岐阜市に住む花子の息子、太田英雄からの返事が掲載される。
8月、京都観世会館会報誌『能 NOH』(15号)に「能を観る人たち」を掲載。
8月、花子の消息を知るため、花子の養子である太田英雄と会う(8月3日と思われる)。
10月、ヴァージニア大学で、 ‘Modern Japanese Novels and the West’ について講演。
Living Japan(『生きている日本』)が、New York: Doubleday & Company より刊行される。
1960(昭和35)年
38歳

1月1日、「花子後日譚」を「鉢の木会」季刊同人誌『聲』(第6号)に掲載。
コロンビア大学東洋学部日本語・日本文学教授に就任。
5月28日、プッチーニの『蝶々夫人』作曲に協力した大山久子(駐伊公使夫人)の孫である澤田壽夫に、『蝶々夫人』の原作である、ジョン・ルーサー・ロング(John Luther Long)の『MADAME BUTTFLY』を進呈する。
夏、京都で近松浄瑠璃の翻訳に専念。
9月9日、熱海の谷崎潤一郎宅訪問。
9月、博報堂で講演。
10月10日、ドナルド・キーンの推薦により、伊藤整が客員教授としてコロンビア大学に招聘される。
12月10日頃、堀川潭の提案でニューヨーク滞在中の伊藤整と日本レストラン「サイトウ」で対談。

1961(昭和36)年
39歳

1月、Major Plays of Chikamatsu(『近松門左衛門傑作集』)を New York: Columbia University Press より翻訳刊行(『曽根崎心中』『堀川波鼓』『丹波与作』『心中万年草』『冥途の飛脚』『国性爺合戦』『鑓の権三』『寿門松』『博多小女郎浪枕』『心中天網島』『女殺油地獄』11編を翻訳して収録)。
The Old Woman, the Wife, and the Archer: Three Modern Japanese Short Novels(深沢七郎『楢山節考』、宇野千代『おはん』、石川淳『紫苑物語』)を New York: Viking Press より翻訳刊行。
コロンビア大学から1年間のサバティカル(有給休暇)を得て、日本に滞在する。文楽と能の研究に専念。
7月21日、井澤元一邸を訪問。井澤元一とともに仁和寺を訪れる。
秋には、京都を離れ東京・原宿に滞在。吉田健一とも親交を深める。また、早稲田大学演劇科の鳥越文藏とともに、金春流の桜間道雄に謡曲『橋弁慶』『熊野』を習う。
11月21日、関西大学大学院講堂にて「日本文学について」講演(主催:関西大学図書館)。約300名が集まる。
12月、東南アジア(フィリピン・マニラ、ヴェトナム・サイゴン、カンボジア・シエムレアブ、ビルマ(現ミャンマー)・パガン、インド(カルカッタ、ベナレス))、中東(レバノン)、地中海のキプロスを旅行し、ロンドン、そしてニューヨークの病床の母のもとへと向かう(南回り・ヨーロッパ経由)。

30代