2月25日、コロンビア大学より学士号取得。 2月、日米開戦に伴ってカリフォルニア大学(バークレー)に開設されたアメリカ海軍日本語学校に第2期生として入学。海軍ニミッツ提督司令部に少尉として配属される。海軍寄宿舎に居住するも、その後「2313 Warring Street」(バークレー、カリフォルニア)に転居。 6月、「唐納同志」(ドナルド氏)宛に「森美」(サム・ブロック)から Jonathan Swift の Gulliver’s Travels (New York: The Heritage Press、1940年)を贈られる。陸軍病院で盲腸の手術を受ける。真珠湾攻撃による怪我人と同室。 6月18日、入院中、友人の一人から誕生日祝いに火野葦平の『土と兵隊』の英訳本を贈られる。同作品が初めて読んだ日本の現代小説となる。 6月23日、コロラド大学(ボールダー)に移転。 アメリカ人宣教師や坂井米夫ら日系人の教師のもとで、長沼直兄編『標準日本語読本』をテキストに日本語を習得。授業は月曜日から土曜日まで1日4時間行われた。また当初は授業期間が16カ月に設定されていたが、戦場での語学将校不足が深刻な問題となり11カ月に変更される。クラスメイトにオーティス・ケーリ(のちの同志社大学名誉教授)、デヴィッド・オズボーン(のち駐日公使)、テッド・ドバリー(のちコロンビア大学教授)がいた。また、7ヶ月後にエドワード・サイデンステッカーが入学する。
1943(昭和18)年 21歳
1月13日、海軍日本語学校を卒業。コロラド大学の Macky Auditorium で行われた卒業式では最優秀生として総代を務め、日本語で告別の辞を述べる。サム・ブロックとともにサンフランシスコへ向かう(のちハワイへ)。 2月、海軍中尉としてハワイ・ホノルルの太平洋艦隊司令部陸海軍情報局に配属され、日本軍に関する文書の翻訳や日本兵の日記の解読、さらに日本兵捕虜の尋問や通訳に従事する。 任務に就く申告のため、オーティス・ケーリと飛行艇でハワイからサンフランシスコ、サンディエゴへと移動。サンディエゴで最初で最後の競馬を経験する。 4月、戦艦ペンシルヴェニア号でアリューシャン列島に向かう。 4月30日、アラスカのゴールドベイでペンシルヴェニア号から軍用輸送船に乗り換える。 5月、日本軍が玉砕した直後のアッツ島に上陸する。アッツ島では日本軍の「玉砕」を目撃する。 7月、サンディエゴで購入した、The Oxford Book Of English Verse 1250-1918(New Edition、Chosen and Edited by Sir Arthur Quiller-Couch、Oxford At the Clarendon Press、1939年)を読み始め、終生愛読する。 8月、キスカ島に上陸する。 9月、弾薬運搬船でホノルルへと帰還(1945年3月までホノルルに配属)。
ケンブリッジ市パークプレイス19の集合住宅を、ハンガリー系フランス人デニス・シノーと共同購入する。 The Battles of Coxinga: Chikamatsu’s Puppet Play, Its Background and Importance(近松門左衛門『国性爺合戦』の研究)が、London: Taylor’s Foreign Press より刊行される。これにより、9月11日にコロンビア大学文学博士号を取得した。 オランダ・ライデン大学でシーボルトらの東洋学資料を研究する。 8月始め頃、第22回国際東洋学会参加のためランドローバー(ジープ)を購入し、友人の運転でフランス、イタリア、ユーゴスラヴィア、ギリシャ(アテネで2日間過ごし、アクロポリスに行く)からトルコ・イスタンブールまでを旅行。その旅行中に、谷崎潤一郎の『細雪』を耽読する。また、学会では本多利明に関する講演で好評を博す。 10月5日、ケンブリッジに戻る。