ドナルド・キーン年譜 40代

(注)年譜作成にあたっては、『ドナルド・キーン著作集 別巻 補遺:日本を訳す/書誌』(新潮社、2020年2月)及び『別冊太陽 日本のこころ254 ドナルド・キーン 日本の伝統文化を想う』(平凡社、2017年9月)を適宜引用した。また多くの方々に貴重な情報を提供いただくなど、多大なご協力をいただいたことに、心より感謝する。未確定の情報については「?」で示しており、今後調査を進めていく予定である。以下の年譜は、2024年(令和6年)5月22日版である。

1962(昭和37)年
40歳

2月、ロンドンへ向かい、アーサー・ウエーリ、死の床にあるベリル・デ・ゾータ(Beryl de Zoete)と再会(アーサー・ウエーリに直接会うのは最後となる)。
2月23日、叔母から母の病状が悪化したとの連絡を受け、カナダのモントリオール経由でニューヨークへ戻る。5時間後、母リナ喘息により死去(63歳)。葬儀の後、ホノルルで戦友ヘンリー・ヨコヤマに会い、日本へと戻る。リナは、死後 Mokom Sholom Cemetery(Ozone Park, Queens County, New York)に埋葬。
3月3日、第10回菊池寛賞受賞贈呈式に出席するためニューヨークを出発。
3月5日、予定より12時間遅れて羽田空港に到着。Yシャツを着替えるため宿泊する虎ノ門・福田家に寄り、正午に大使館到着。第10回菊池寛賞(日本文学振興会)受賞祝いの昼食会(場所:アメリカ大使公邸)に出席。主催者であるライシャワー駐日大使・ハル大使夫人の他、嶋中鵬二、三島由紀夫、吉田健一、文藝春秋の佐佐木茂索、池島信平、德田雅彦が列席。
3月6日、第10回菊池寛賞受賞式に出席(場所:ホテルニュージャパン)。古典ならびに現代日本文学の翻訳による海外への紹介の功績により同賞を受賞した。受賞式後の祝宴には、高見順、大岡昇平、三島由紀夫、有吉佐和子が出席。
欧米・岐阜での調査結果を含めた、花子に関する研究成果を New Japan 14号(毎日新聞社発行)に ‘HANAKO’ と題して英文で発表。
10月5日、ケンブリッジ大学にて教鞭をとるため渡英した鳥越文藏(のちの早稲田大学名誉教授)が、大英博物館図書室にて「越後国:柏崎 弘知法印御伝記」の伝本を確認。のちにドナルド・キーンが上演を提案することになる。

1963(昭和38)年
41歳

2月28日、『日本の文学』(グリーンベルト・シリーズ11、Japanense Literature: An Introduction for Western Readers の和訳版、吉田健一訳、解説:三島由紀夫)が、筑摩書房より刊行される。
3月7日、親友で戦友の Richard K. Beardsley の要請により、The Center for Japanese Studies of University of Michigan で ‘Modern Japanese Poetry’ について講演。
6月25日、 マダガスカルの大学で行われたカクテルパーティーに参加。
初夏、アフリカ・象牙海岸(コートジボアール)、ガーナ、ナイジェリア、マダガスカル、モーリシャスを講演旅行。ナイジェリア:イバダン大学では日本文学を講演し、狂言を披露した。後のノーベル賞受賞作家、ウォレ・ショインカ(Wọlé Sóyinká)を知る。また、詩人クリストファー・オキボ(Christopher Okigbo)と出会う。
7月17日、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫とともに中央公論社版『日本の文学』(全80巻)の第3回編集委員会に出席(場所:虎ノ門・福田家)。
8月16日、中央公論社を訪れ、コロンビア大学図書館への書籍35冊の発送を依頼(翌17日発送)。
8月17日、谷崎潤一郎、川端康成、伊藤整、高見順、大岡昇平、三島由紀夫とともに中央公論社版『日本の文学』(全80巻)の第5回編集委員会に出席(場所:虎ノ門・福田家)。
8月、中央公論社の嶋中鵬二から、前田良和を紹介される。
夏、小西甚一とともに荏寺枚平(わんや書店会長・江島伊兵衛)の自宅を訪れる。
9月11日、虎ノ門・福田家にて津島美知子と対談(「太宰文学の周辺」)。
After the Banquet(三島由紀夫『宴のあと』)を New York: Alfred A. Knopf より翻訳刊行。

1964(昭和39)年
42歳

1月、インド・ニューデリーでの国際東洋学会に出席。
1月22日、18:00より『日本の文学』刊行記念文芸講演の夕が開催(場所:大阪・御堂会館ホール)され、「谷崎潤一郎論」を講演。伊藤整(「近代日本と文学」)、大江健三郎(「若い作家と伝統」)、平林たい子(「日本の女流作家」)、大宅壮一(「やぶにらみ日本文壇史」)らも講師として参加。
1月24日、18:00より『日本の文学』刊行記念文芸講演の夕が開催(場所:東京・サンケイホール)され、「谷崎潤一郎論」を講演。嶋中鵬二・谷崎潤一郎の挨拶があり、大岡昇平(「現代小説の問題点」)、有吉佐和子(「女の小説」)、小林秀雄(「文学雑感」)、大宅壮一(「やぶにらみ日本文壇史」)らも講師として参加。
1月25日、パンアメリカン航空にて羽田からニューヨークに出発。
中央公論社主催の講演旅行で大江健三郎を知る。
5月、オーストリア・ザルツブルクでの’64フォルメントール国際文学賞選考会に出席、三島由紀夫『宴のあと』を推挙するが、次点に。
6月17日、谷崎潤一郎の全米芸術院・米国文学芸術アカデミー名誉会員証贈呈祝賀会に出席するため、15:25パンアメリカン航空001便でニューヨークから羽田着。虎ノ門・福田家で着替えた後アメリカ大使館へ向かう。18:30からアメリカ大使公邸にて祝賀会開始(18:30~19:00:レセプション、19:00~20:00:晩餐会、20:00~20:15:贈呈式)。
6月18日、虎ノ門・福田家にて三島由紀夫と対談(「三島文学と国際性」)。
7月、親友の永井道雄の別荘近く、長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉千ヶ滝に別荘地を購入(1965年からほぼ毎年夏に滞在。「十坪の庵」と呼ぶ。)。
グローブ・プレス社長バーニー・ロセットに大江健三郎の『個人的な体験』を紹介。以後大江の作品が英訳で出版されるようになる。
7月28日、中央公論社を訪問し、ニューヨークへ送る書籍を預ける(翌29日発送)。
8月20日、中央公論社を訪問し、ニューヨークへ送る書籍2冊を預ける(24日発送)。
8月、安部公房がソ連を訪問。その際に入手したと思われるユーリー・ワシーリエフ Yuri Vasiliev のリトグラフを、その後譲り受ける。
9月3日、「日本文化・文学の海外紹介に貢献」した研究者として椎名悦三郎外務大臣に永田町 ・賀寿老へ招待される。ハワード・ヒベット、ドナルド・キーン、エドワード・サイデンステッカー、アイバン・モリス、川端康成、三島由紀夫、嶋中鵬二らが出席。
9月6日、15:22東京発―16:47湯河原着の第二いでゆ号に乗り、ハワード・ヒベット、エドワード・サイデンステッカー、嶋中鵬二らとともに谷崎潤一郎の住む(新築の)湯河原・湘碧山房を訪問。20:29小田原発の第三おとめ号(ロマンスカー)で新宿へ戻る。
9月14日、中央公論社を訪問し、ニューヨークへ送る書籍・掛軸を預ける。
9月18日、10:00羽田発JAL806便でホノルルへ出発。
9月20日、23:59ホノルル発のJAL802便で翌21日07:45にサンフランシスコ着。
9月21日、08:45サンフランシスコ発アメリカン航空014便で16:42ニューヨーク着。
10月、『砂の女』英訳版出版でニューヨーク滞在中の安部公房を知る。面会の際には勅使河原宏も同席し、通訳はオノ・ヨーコが務めた。
11月29日、ホノルルで角田柳作が死去し、新しい日本文学史を書くことを決意する。
12月18日、原芳男とともにメトロポリタン歌劇場で《ホフマン物語》を観る。
12月30日、フロリダのセント・ピーターズバーグに住む父ジョセフのもとを親友原芳男とともに訪れる。

1965(昭和40)年
43歳

正月、原芳男とテキサス(ダラス)へ向かい、サム・ブロックの自宅に滞在する。
5月28日、17:30にJAL869便で(ニューヨークから)羽田着。
夏、滞在するプリンスホテルに本間英孝、鳥越文藏、郡司正勝が訪れ、赤坂の中華料理屋へ向かう。本間から能の米国大学における巡回公演について提案される。
8月3日、谷崎潤一郎の葬儀(青山葬儀場)に出席。
9月8日、110:00に羽田からJALでニューヨークへと出発。
Bunraku: The Art of the Japanese Puppet Theatre(序文:谷崎潤一郎、写真:金子弘)が、Tokyo: Kodansha International より刊行される(和訳版:『文楽』吉田健一訳、講談社、1966年)。
フランス南部サン・ラファエル近くのホテルで行われた’65フォルメントール国際文学賞選考会に嶋中鵬二と出席、三島由紀夫『宴のあと』を推挙。

1966(昭和41)年
44歳

1月、プエルトリコでの第5回日本近代化研究会議「日本文化における伝統と近代化」に出席。伊藤整、永井道雄、芳賀徹らと交流。
5月8日、宝生英雄を団長とする米国大学巡回能楽団が結成。宝生流能楽団のアメリカ、メキシコ公演をプロデュースする。
5月31日、能楽公演準備のために渡米した能楽団事務局長の江島尤一と大和証券ニューヨーク支店の光岡氏をコロンビア大学のアパートに招く。
6月1日、江島尤一を連れてコロンビア大学を案内。午後にはマンハッタン大学で日本文学を教える藤川富美子の案内で、江島とともに同大学を訪問。
6月2日、大阪の教育委員会からコロンビア大学へ留学していた富士貴志夫、江島とともに、午後急行バスでプリンストン大学へ。江島らと別れ病中の友人を見舞いに向かう。
6月6日、江島とともにジャパンソサイエティー(日本協会)の専務理事ダグラス・W・オバートンを訪ね、国際文化振興会の渡辺央充を交えて能楽団の講演旅行について相談(6月末には宝生宗家に日本協会から能楽団への正式な招待状が届く)。その後、汽車でニューヨークからニューヘブン駅へ向かい、エール大学を訪れる。同大学ではホール教授、ミラー教授に出迎えられ、(能楽団の)公演予定の会場を見学。なお、会話は全て日本語だった。また、エール大学で日本語を教える小林常夫も加わり、ミラー教授のアパートで歓談。
6月7日、江島と空路ワシントンへ。朝日新聞ワシントン支局勤務の富森叡児と日本大使館で落ち合い、官房参事官沢木正男、文化担当参事官山中駿一を交えて、ワシントンでの能の公演について相談(ワシントンにおける公演の費用は大使館が負担することになる)。一度江島と別れ友人と会った後、午後3時に江島、富森と国務省教育文化局極東部日本課の川本ゆきおを訪ねる。
6月12日ー18日に、ニューヨーク市・ニューヨーク大学で開催された第34回国際ペン大会に出席(大会のテーマ:「自由独立人としての作家」(The Writer as Independent Spirit)、会長:劇作家アーサー・ミラー(Arthur Miller))。その折、フィフス・アベニューのアイバン・モリス(Ivan Morris)邸で行われた食事会に参加し、大会のために渡米していた伊藤整、立野信之、アイオワ大学に詩作勉強のため留学中だった翻訳者の Lento Takako と会う。
7月16日、19:25にパンアメリカン航空で羽田到着。赤坂プリンスホテル218号室に宿泊。
夏の間、軽井沢の山荘で『徒然草』を翻訳。
8月、軽井沢にて永井道雄から論文集『THE PROBLEM OF INDOCTRINATION: AS VIEWED FROM SOCIOLOGICAL AND PHILOSOPHICAL BASES』(The Ohio State University、1952)を贈呈される。「ドナルド・キーン様 僕が敬愛する友人、そして人間 一九六六年八月 長野県軽井沢町千ヶ滝にて 永井道雄」との署名と手紙付き。
9月8日、「サド侯爵夫人」の翻訳(一部)が完成したことについて、三島由紀夫から「バンザイ バンザイ」で始まる電報が届く。
9月13日、渡米能楽団(米国大学巡回能楽団)による「試演の会」(場所:水道橋能楽堂)に出席。
9月16日、フォルメントール国際文学賞会議出席のため、22:30羽田発JAL431便にて嶋中鵬二夫妻とともにフランス(パリ)へ出発。その後、フランクフルト、マインツ、ルッツェルンをまわり、チューリッヒで嶋中夫妻と別れる。
9月24日、渡米能楽団(米国大学巡回能楽団)が羽田空港から日航国際線第2便日光号でハワイへと出発。ハワイ時間23日の午後10時頃にホノルル空港に到着。その後11月12日までの50日間、ハワイ大学、ヴァージニア大学、ハーヴァード大学、カリフォルニア大学など32カ所で『隅田川』『通小町』『清経』など36回上演。延べ観客数30000人。
9月27日、ロンドン経由で13:40にニューヨーク着(パンアメリカン航空101便)。その後すぐに「明治維新と日清戦争について」の講義をするためダラスへと向かう。
9月30日、サウザンメソディスト大学にて公演を行うためダラスを訪れた渡米能楽団(米国大学巡回能楽団)を出迎える。

10月1日、サウザンメソディスト大学での公演(演目:『通小町』・『経政』)を控える渡米能楽団(米国大学巡回能楽団)の江島尤一らを連れてメキシコ料理屋へ。
10月2日、サウザンメソディスト大学での公演(演目:『清経』・『玉葛』)を終えた渡米能楽団(米国大学巡回能楽団)の江島尤一ら、サム・ブロック、ハーディ氏とともに夕食。また、宝生英雄、住駒明弘、江島尤一らと日本料理店「かずえ」へ。
10月13日、マンハッタンビル女子大学での公演(演目:『隅田川』・『箙』)を終えた渡米能楽団をニューヨークのアパートに招き、夜食を兼ねたパーティーを開く。サム・ブロック、コロンビア大学教授のアイヴァン・モリス、猪熊玄一郎の姪上西信子、マンハッタンビル女子大学教授の藤川富美子らも出席。
10月14日、コロンビア大学(マックミラン劇場)にて、渡米能楽団による演能(演目:『通小町』・『経政』)に先立ち解説を行う。観客概数は900人。
10月15日、渡米能楽団を連れてニューヨーク・シティーホールへ向かい、シティーバレー団による《セビリアの理髪師》を観劇。その後コロンビア大学(マックミラン劇場)での公演(演目:『清経』・『玉葛』)を終えた渡米能楽団とともに、ケントホールの一室で催されたジャパンソサイエティ主催のレセプションに参加。レセプションには、猪熊玄一郎夫妻や姪の上西信子を含め数十人が出席し、盛大なパーティーとなった。
10月16日、渡米能楽団を連れてニューヨーク・シティーホールへ向かい、シティーバレー団による《ラ・ボエーム》を観劇。
10月17日?、サム・ブロックとともにリンカーンセンターに移転したメトロポリタン歌劇場で、オペラ《影のない女》を観劇。同作品が、移転後のメトロポリタン歌劇場で観た最初のオペラとなる。
10月24日、ミシガン大学での公演(演目:『隅田川』・『箙』)を控える渡米能楽団の元を訪れ、本間英孝と会う。
Nō: The Classical Theatre of Japan(序文:石川淳、写真:金子弘)が、Tokyo: Kodansha International より刊行される。
Death in Midsummer, and other stories(三島由紀夫『真夏の死その他』、New York: New Directions)に『橋づくし』『道成寺』『女方』を翻訳収録。

1967(昭和42)年
45歳
1月26日、アメリカを離れる。
2月12日、ノースウエスト航空002便で13:50に香港から羽田着。赤坂プリンスホテル宿泊。
3月27日、中央公論社7階・和室にて山本健吉と対談(「啄木・子規・虚子の文学」)。
4月25日、フォルメントール国際文学賞の本審査のため、22:30羽田発JAL401便で(ローマを経由し)チュニジア・チュニスへ。チュニジア・チュニスでの’67フォルメントール国際文学賞選考会に嶋中鵬二、佐伯彰一、近藤信行(『海』初代編集長)らと出席。
5月1日、三島由紀夫『午後の曳航』『真夏の死その他』、安部公房『他人の顔』を推挙するが、『真夏の死その他』が次点に。帰途、嶋中らとテヘランからイスファハンを経てシラズへ。再度テヘランへと戻り、バンコクにて佐伯、近藤と合流。
5月9日、21:20にスカンジナビア航空983便で羽田着。
7月10日、赤坂・シドにて三島由紀夫と対談(「谷崎文学を語る」)。
8月10日、メキシコシティ:コレヒオ・デ・メヒコで ‘EL RENACIMIENTO LITERARIO JAPONÉS DEL SIGLO XVII’ を講義。約一ヶ月メキシコシティで過ごし、翻訳家の酒井和也宅に宿泊。
8月19日、10:00に羽田を出発(行き先不明)。
8月30日、メキシコシティ:コレヒオ・デ・メヒコで ‘LA SENSIBILIDAD FEMENINA EN LA LITERATURA JAPONESA DEL SIGLO X’ を講義。
8月、メキシコシティ:コレヒオ・デ・メヒコで ‘La obra de Tanizaki Junichiro’ を講義。
Essays in Idleness: The Tsurezuregusa of Kenkō(『徒然草』)を New York: Columbia University Press より翻訳刊行。Van Ameringen Distinguished Book Award 受賞。
Madame de Sade(三島由紀夫の戯曲『サド侯爵夫人』)を New York: Grove Press より翻訳刊行。
「能―日本の古典劇」 (英文)で、コロンビア大学・ヴァンアムリンジ協会優秀図書賞を受賞。
1968(昭和43)年
46歳

1月中旬、ニューヨークに滞在(カリフォルニアから移動)。
2月中旬、リヒャルト・シュトラウスの《エレクトラ》を観る。
2月20日前後、プッチーニの《つばめ》のレコードを聴く。『日本人の西洋発見』の増補改訂版を刊行することが決定。
3月半ば?、サンフランシスコで行われた学会に参加。永井道雄とともに3、4日間過ごす。ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージについて調査。
4月、コロンビア大学で学生ストライキ。自宅で講義。生徒は、ジャニーン・バイチマン(Janine Beichman) 、フェリス・フィッシャー(Felice Fischer)、キャロル・ホーホステッドラー(Carol Hochstedler)、スーザン・マチソフ(Susan Matisoff)、ポール・ノヴォグラート(Paul Novograd)の5人。
5月31日、プッチーニの《つばめ》のレコードを聴く。ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージの銅版(複製)を探す。
6月12日、ニューヨークを離れる。その後、サンフランシスコ、ホノルルに滞在。
6月17日、20:05にJAL001便で(ニューヨークより)羽田着。三島由紀夫が出迎える。20日頃まで赤坂プリンスホテル宿泊し、その後はポール・ブルーム邸に宿泊。
夏、増補版『日本人の西洋発見』のため、「北方の探検者」を軽井沢の中央公論社の別荘で執筆(芳賀徹の訳で12月に中公叢書から刊行される)。
7月、三島由紀夫、小西甚一と「世阿弥の築いた世界」と題して鼎談。
8月15日、JALとSUの共同便(441便)で、モスクワ、レニングラード、プラハ、ヘルシンキ経由でニューヨークに向かう。ソ連を訪問したのは初めてであり、レニングラード(現サンクトペテルブルク)で、日本文学研究者イリーナ・リヴォーヴァと会う。
秋、メトロポリタン歌劇場にてビルギット・ニルソンの《トゥーランドット》を聴く。
10月半ば頃、ノースカロライナ、ミシガンなどで講演。
11月1日、メトロポリタン歌劇場にて《ドン・カルロ》を聴く。

1969(昭和44)年
47歳

6月17日、15:55にJAL005便でホノルルから羽田に到着。嶋中鵬二・雅子夫妻、近藤信行、前田良和、三島由紀夫・瑤子夫妻、安部公房らが出迎える。
9月1日、20:20羽田発JALとSUの共同便(443便)でニューヨークに向かう(ソビエト、スウェーデン、イギリス、フランスを経由)。嶋中鵬二夫妻、永井道雄夫妻、平岡瑤子、安部公房夫妻、前田良和が見送りに訪れる。
9月4日、モスクワ大学にて講演?
9月18日、ニューヨークに到着。
11月1日発行の『安部公房作・演出 棒になった男 第一回紀伊國屋演劇公演』のパンフレットに、「「棒になった男」と「松風」」が掲載される。
第2回国際出版文化賞(出版文化国際交流会)受賞―『文楽』により。
Friends(安部公房の戯曲『友達』)を New York: Grove Press より翻訳刊行。
アイヴァン・モリスをコロンビア大学日本語・日本文学教授に推挙。

1970(昭和45)年
48歳

5月11日、レニングラード(現:サンクトペテルブルク)から、親友・原芳男にはがきを送る。滞在中には、パブロフスク宮殿を見学。
5月21日、21:45にJAL462便でインドのデリーから羽田に到着。嶋中鵬二夫妻、永井道雄夫妻、三島由紀夫・瑤子夫妻、安部公房夫妻、前田良和らが出迎える。赤坂プリンスホテル宿泊。
6月、Twenty Plays of the Nō Theatre(『謡曲20選』)を New York: Columbia University Press より編集刊行(『道成寺』を翻訳収録。教え子のアイリーン・加藤、カーリン・ブラゼル、カール・シーザー、ジャニーン・バイチマン、スーザン・マチソフ、スタンレー・H・ジョーンズ、ロイヤル・タイラーらの翻訳を監修)。
6月27日、国際ペン大会に参加するため、09:40羽田発ー11:50ソウル着のJAL951便でソウルへと向かう。
7月6日、14:20釜山発ー14:44福岡着のKE301便で福岡へ、その後オープンチケットで羽田に到着。
7月16日、嶋中鵬二夫妻、エドワード・サイデンステッカーら6名で、16:45より歌舞伎座 「出雲の阿国」 観劇。
8月8日、11:50東京発ー15:11米原着のこだま363号で米原へ、15:28米原発ー16:28武生着の急行ゆのくに3号(普通車)で武生到着。武生に滞在していた安部公房を訪ねる。
8月10日、12:59武生発ー14:05米原着の急行立山2号で米原へ向かい、14:21米原発ー17:45東京着。
8月11日、12:47東京発―15:54下田着の急行伊豆2号(座席:3号車C)で下田へと向かい、伊豆下田東急ホテルに滞在していた三島由紀夫が下田駅で迎える。ドナルド・キーン自身も同ホテルに宿泊する。夕食を三島由紀夫、ヘンリー・スコット=ストークスとともにする。
8月12日、朝に三島から「天人五衰」の結末部の原稿を読むことを勧められるも遠慮して断る。
8月13日、11:29下田発―14:06東京着の特急あまぎ1号(座席:3号車8B)で東京へ帰る際、12日に伊豆下田東急ホテルを訪れた織田紘二と三島に見送られる。同時期には、ヘンリー・スコット=ストークスも付近の民宿に滞在していた。
8月25日、国立劇場小劇場で三島由紀夫、織田紘二とともに第3回国立劇場青年歌舞伎祭第1回若草座公演を観劇。織田に『妹背山婦女庭訓』「御殿」のお三輪(坂東玉三郎)は本公演でもやってほしいと感想を述べる。
9月5日、12:00羽田発ホノルル行きのJAL52便で帰国する際に、羽田空港で三島由紀夫・瑤子夫妻、嶋中鵬二夫妻、永井道雄・美智子夫妻と長女・育代、安部公房夫妻、前田良和に見送られる。生前の三島と会ったのはこの日が最後となる。
9月10日、小西甚一との対談「芭蕉の哲学」が収録された『風雅のまこと(芭蕉の本 第七巻)』(角川書店)が刊行。
11月25日、深夜ニューヨークの自宅にいたところ、当時の読売新聞記者・渡邉恒雄からの取材電話で、三島由紀夫の自決を知る。
11月26日、『読売新聞』朝刊に渡邉恒雄による取材記事が掲載(「あまりに日本的 2.26の暗いカゲ アメリカ ソ連 三島ハラキリ 驚く世界」)。
歴史学者でありコロンビア大学教授のジャック・バルザン(Jacques Barzun)の推薦により、ニューヨークの由緒あるプライベートクラブ、THE CENTURY ASSOCIATION(通称:CENTURY CLUB)の会員に(~2019年まで)。

1971(昭和46)年
49歳

1月3日、New York Times Book Review に ‘Mishima’(和訳「三島由紀夫における『菊と刀』」)を発表。
1月6-12日に開催されたオーストラリア・キャンベラ国立大学での第28回国際東洋学会にて、 ‘Mishima Yukio’ を講演。
1月16日、13:30にカンタス航空272便で香港から羽田に到着。嶋中鵬二夫妻、安部公房夫妻、前田良和らが出迎え、麹町 ・桝半で夕食。赤坂プリンスホテル宿泊。
1月23日、12:00発JAL052便でホノルルへと出発し、(ホノルル経由で)ニューヨークに向かう。嶋中鵬二夫妻、永井美智子、前田良和が見送りに訪れる。
6月、東京都文京区西片町1-13-6-901にマンション購入。1年の前半(1-5月)をニューヨークのコロンビア大学で教え、後半(6-1月)を日本で過ごすという生活が2011年のコロンビア大学退職まで続いた。また、コロンビア大学ではアイヴァン・モリスと半年ずつ授業を分担し、アイヴァン・モリスの死後はエドワード・サイデンステッカーが後任となり、マンションの一室を共通の住居にした。
7月2日、16:15にキャセイパシフィック航空402便で、羽田に到着。嶋中鵬二夫妻、永井美智子、安部公房夫人、前田良和が出迎える。
7月25日、10:04上野発・急行白山(座席:4-5D)で軽井沢へ。
8月6日、11:41上野発・急行軽井沢53号で軽井沢へ。
8月16日、軽井沢より帰京する。
8月20日、12:45上野発・急行軽井沢号(座席:13-7A)で軽井沢へ。
8月、ロンドンの文芸紙 Times Literary Supplement の Japanese literature 特集号に、’Mishima and the Modern Scene’ (三島由紀夫と日本の現状)を寄稿。
9月、Landscapes and Portraits: Appreciations of Japanese Culture を、Tokyo: Kodansha International より刊行。14日、有楽町:アラスカで同書の出版記念会(主催:講談社インターナショナル)。司会を篠田一士が務め、川端康成、石川淳、宇野千代、大江健三郎らが出席した。同書には、1962年に New Japan 14号(毎日新聞社発行)へ掲載された ‘HANAKO’ が収録される。
10月、「日本との出会い」を『東京新聞』に連載(12月28日まで、篠田一士訳)。
11月16日、14:30より中央公論社・座談会室にて安部公房と対談(「対談 文学と普遍」)。
11月18日、司馬遼太郎と奈良・平城宮趾を発掘責任者の坪井清足の案内で散策したのち、「菊水楼」で対談(『日本人と日本文化』中公新書、1972年)。
11月、徳岡孝夫とともに奈良、倉敷、松江、津和野と三島由紀夫追悼の旅。
11月末?(or 12月初旬)、司馬遼太郎と京都・銀閣寺の庭を散策してから銀閣「方丈の間」にて2度目の対談(『日本人と日本文化』中公新書、1972年)。
12月10日、東京都文京区西片町1-13-6-901に転居(手伝い:中央公論社社員の前田良和と鈴木崇生、その他)。お昼にラーメンを出前注文する。また、引越しの前には京都新門前にある行きつけの骨董屋、中島美術店で鄧石如の四曲屏風を新居のために購入。
12月13日、司馬遼太郎と蘭医緒方洪庵の適塾を見た後、司馬お気に入りの大阪船場の料理屋「丸治」で3回目の対談(『日本人と日本文化』中公新書、1972年)。
Chūshingura: The Treasury of Loyal Retainers(竹田出雲ほか作『仮名手本忠臣蔵』)を New York: Columbia University Press より翻訳刊行。

40代